社会人一年目、右も左もわからない頃に叩き込まれたのは製品の知識でも営業のノウハウでもなく、「パワハラの現場見学」だった。
小さな企業に入社してすぐ、直属の上司がどういう人間かを理解するのに一週間もかからなかった。
身内の葬儀で忌引届を出したら、それをビリビリに破り散らかして「ふざけるな!」と怒鳴る。
紙吹雪のように舞う申請書を前に、私は弔意よりも「社会人ってこういうものなのか」という絶望を先に覚えた。
電話対応一つとっても異常だ。ある日、営業車の中で上司から電話が入り、一時間にわたる説教を垂れ流された。こちらは「はい」「申し訳ありません」を繰り返すしかない。さすがに途中からは漫画を片手に聞き流していたが、それでも一時間は一時間。人間は説教をBGMに漫画を読めるのだと知った瞬間だった。
さらに驚いたのは、社員に鬱の兆候が出ると「早めにケアしてあげよう」ではなく「即転勤させろ」という方針だったこと。心を病みかけた者を遠くへ飛ばしてリセットすれば会社が守れる、という倒錯した理屈。実際には誰の心も守れず、退職届と診断書だけが積み上がっていった。
会議室に呼ばれたときも不思議な体験をした。ドアを開ければ上司が一人で座っているはずなのに、中からは奇声が響く。開けてみると本人しかいないのに、まるで複数人で罵声を浴びせ合っているかのような音量と迫力。これを「人格の分裂」と呼ぶか「才能の暴走」と呼ぶかは人それぞれだが、少なくとも常識では説明できない現場だった。
そんな日々が延々と続き、「ああ、俺の社会人デビューは呪いだったんだ」と思いながらも転職して距離を置いた。15年以上経ち、あの会社もあの上司もすっかり記憶の奥に沈んでいた。
ところがある日、Twitterを眺めていた私は思わずスマホを落としそうになった。開業医のアカウントに「スタッフの労働時間が長すぎだ!働き方改革を徹底せよ!」と正義漢ぶったリプライをしている人物がいたのだ。アイコンもプロフィールも、どう見てもあの上司。
かつて忌引届を破り散らし、鬱社員を飛ばし、部下を一時間拘束して説教した人間が、今や「働き方改革」を語っている。彼の辞書には「厚顔無恥」という四文字が金箔で刻まれているのだろう。時代が変われば加害者も被害者ぶる。
SNSは記憶を上書きし、黒歴史を白衣で覆う舞台装置になる。そのアカウントを見つけて以来、私は密かな楽しみを持った。彼はそろそろ七十歳。健康不安のつぶやきが出るたびに「いよいよか」と心の中でカウントダウンする。どんな苦しい死に方をするのか、興味半分、因果応報を見届けたい気持ち半分で、彼の発言を追い続けている。もちろん「いいね」もしなければリプもしない。ただ静かに観察するだけ。
昔のパワハラ上司を、今は研究対象のように扱っているのだ。結局、20年前の体験は私にとって一種のトラウマであり、同時にブラックユーモアのネタでもある。忌引届の紙片も、会議室の奇声も、すべてが「時代遅れの上司劇場」の一幕だった。そして今、その役者はSNSという新しい舞台で「働き方改革」を叫んでいる。観客である私は、幕が下りる瞬間をただ待っている。

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