実質1個20万のカップ麺

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コロナ禍で仕事が減ったと、従兄弟の姉から金を貸してほしいと頼まれたのは、もう数年前になる。当時は誰もが生活に不安を抱えていた時期で、「まあ一時的やろ」と思ったのが運の尽き。毎月10万円を渡す生活が、気がつけば2年近く続いていた。

「仕事が決まるまで」「生活が落ち着くまで」——その言葉を信じてしまったのは、やはり身内だからだろう。けど実際、姉の生活はまったく見えてこなかった。就職活動をしている様子もなく、具体的にどんな仕事を探しているのかも話さない。ただ「助かるわ」と軽い調子で受け取るだけ。こちらとしては、10万がどう使われているのか確認する術もなかった。家賃や光熱費に消えたと思いたいが、SNSで見かけるような派手な外食や、最新のスマホを持ち歩く姿を見ると、「もしかしてオレの金か?」という疑念は拭えなかった。

結局、姉の私生活は謎のまま。こちらが必死に稼いだ金は、まるでブラックボックスに放り込んだように行方知れずになっていった。

1年、2年と続けていくうちに、だんだん「これは一生タカられるな」と思い始めた。怒りよりも、虚しさが先に来る。身内に情をかけてしまった自分の甘さを呪った。だからある日を境に、援助をスパッとやめた。「切り捨てる」という言葉は重いが、そうするしか自分を守る方法がなかった。

とはいえ、人間図々しいもので、切り捨ててもなお金の無心はやってくる。援助を打ち切ってからも2回、「どうしても」と頼まれた。もうそのときは完全に心は冷めていたので、取り合わなかったが、しつこさに呆れるしかなかった。

極めつけは、金を渡していた2年の間にに姉から届いた宅配便。中身は当時やや品薄になった「一蘭のカップ麺1箱12個入り」。お礼のつもりだったのだろうか。だがこちらとしては、2年間で240万近く渡した身だ。計算すれば、実質「1個20万円のカップ麺」である。さすがに笑うしかなかった。下手な高級料亭よりも高い一蘭。しかもお礼がラーメンというセンス。結局、金の行き先は闇の中だが、せめて笑い話に昇華するしか救いはない。

振り返れば、この一連の出来事で学んだことはひとつ。「身内だからこそ金を貸すな」ということ。赤の他人なら断れるのに、姉だからと財布を開いたのが失敗だった。情に流されて金を出したところで、感謝どころか依存を生むだけ。渡した方は「助けになれば」と思っていても、受け取った方にとっては「またもらえる」に変わる。そこに絆も、信頼も残らない。

結局、あの金は何に使われていたのか。生活費なのか、娯楽なのか、それとももっとしょうもないものなのか。今となっては知る術もない。ただはっきりしているのは、240万円の代わりに自分が手に入れたのは「高すぎる一蘭のカップ麺」だけだということだ。

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